現在、聚楽園大仏は宗教法人・大仏寺により管理されています。そして境内地の周囲を囲むように、東海市が管轄する聚楽園公園の敷地が広がります。
山田才吉は聚楽園大仏を「大正天皇御大典記念事業(大正天皇の即位を記念する事業)」として寄付を集め、造立しようと考えていました。しかし最終的には、私費15万円(2017年の価値で約2億4000万円)を投じ「昭和天皇御成婚記念事業」として、当時日本一の大きさの大仏を造りました。
完成当時、才吉は70代半ばでした。その後、84歳で才吉は亡くなりますが、その後、聚楽園と大仏は名古屋の企業に所有権が移りました。
当時の中日新聞の報道によれば、当時、近隣の人々を中心に大仏をお参りする「大仏講」というものができていました。それら人々の意を汲む形で、旅館と大仏を管理することになった名古屋の企業は、大仏や参道の修繕を重ねていました。一方で、その維持費は一企業がすべて請け負うには、大きな額になっていたことも事実でした。
そこで名古屋の企業は、大仏含む聚楽園一帯の土地を東海市が買うことで、市に管理してもらおうと市に持ちかけます。この申し出を東海市は前向きに検討しますが、大仏が「宗教に関するものである」ということで、結局市は、この申し出を受け入れられませんでした。
当時の中日新聞には「市の代わりに受け入れてくれるよう市内の各寺に問い合わせても、寄付に伴う譲渡税および維持管理費が数千万円に上るとあって、色よい返事がない。文化財扱いで寄付を受けようにも、鉄筋コンクリート造りで歴史も浅いという理由で流れてしまった」と報じています。そこから大仏は、3年半の間、行き先が決まらない状態に置かれました。
大仏を残すために考えた結果、たどり着いたのが、宗教法人を設立して、そこに仏像と境内地を寄付してもらい管理するという案でした。
当時の中日新聞は「新たに宗教法人『大仏寺』を設立する。そこに土地などを無条件で寄付してもらい、ひび割れの補修などに必要な千数百万円は市民の浄財に仰ぐ。市文化財指定を申請し大仏保存会を発足させる。境内を市民公園に整備、仏教界の全面的なバックアップで各種行事を進めていく」といった計画が報じられています。同案に名古屋の企業も同意し、現在の形に落ち着いています。大仏寺の管理は、東海市内の普済寺が担うことになりました。
その後、1984年に「聚楽園大仏修復奉賛会」が組織され、市民ぐるみの募金活動が展開。東海市の助成と合わせて、57年ぶりに大仏は修復されました。1985年に開眼供養が執り行われ、稚児行列などが華やかに大仏の前を練り歩きました。
平成に入ってからは、山田才吉の三女の私費で、大仏前の仁王像などの一部修繕を行なっています。