聚楽園大仏を訪れた人のブログなどを読んでいると、現在はふさがれてしまっている大仏胎内についての関心の高さがうかがえます。立ち入りが禁止されている場所ですので、余計に見たい気持ちが募るのは人の性。じつは以前は、大仏の胎内へ自由に入ることができました。一体どのような空間になっていたのでしょうか。
大仏の胎内は時代と共に少しずつ変わっていますが、大仏完成時の資料「大仏御尊縁起」にはこう書かれています。
御胎内には観世音菩薩を蔵め奉る此の胎内仏なる観世音菩薩はもと本朝第百十六代 後桜町天皇様の御念持仏なりしを京都東山霊鑑寺の御門跡成等覚院の宮様に御遺贈し給いしと云ふ由緒最も尊き御霊仏なり然るに其後奇しき因縁にて大正元年冬京都東山南禅寺管長河野霧海大禅師が右霊鑑寺より譲り受けられ日夜念持されつつありしが此度當大仏の御開眼に方り其の建立主なる山田才吉翁の大願に感じ特に京都より奇せ贈られしものなり其の他當御大仏尊の御胎内には広く本朝仏法十三宗の御祖師方を祭り奉れるが故其宗旨の如何を問はず人々が一心に礼拝せられなば現當二世の安楽決定して疑無かるべく特に衆生縁深き御仏なるところよりして夫婦和合の薦め結縁の御守札を出すこととは薦しぬ
(一部旧漢字は現代表記に修正)
つまり大仏の胎内には、元は後桜町天皇の念持仏であり、巡り巡って当時の南禅寺管長・河野霧海氏の手元にあったものが、大仏造立時に山田才吉に譲られ、大仏の胎内に納められたと記してあります。
また1984年の修繕前に大仏の胎内へ入ったことがある当会メンバーおよび近所の人々の記憶では、当時胎内には仏画が描かれていたとのことですので「本朝仏法十三宗の御祖師方を祭り」というのは胎内にあった仏画だと推測されます。
しかし、これら内部に見るべきものも多かった聚楽園大仏ですが、時代と共に失われてしまいました。後桜町天皇の念持仏は、才吉の三女(故人)の話によれば、戦後すぐの時点では、すでに無くなっていたそうです。終戦後、進駐軍が聚楽園大仏を訪れ、その念持仏を探したが見つからなかったと言います。加えて、胎内に描かれていた仏画は、1984年の修繕時に塗られ、現在では確認することができません。
1984年の修繕後は、しばらくして大仏後方にある出入口は閉じられました。理由は保安のためです。
聚楽園大仏の周囲は夜になると人通りがありません。当時のことを記憶する当会メンバーや、聚楽園大仏を管理する普済寺(大仏寺)のご住職の言葉をまとめると「お賽銭が盗まれる」「当シンナーを吸う学生が集まる」「線香立てが燃える」「ホームレスが胎内で火をたく」といったことがありました。
大仏の前に人を配置し、24時間体制で管理することもできず、なるべくそのような行為が行われないように対策を考えた結果、出入口については南京錠をかけました。ただ、それも壊され、また掛け替える、といったイタチごっこが続きました。結局、最終的には現在のような、堅牢な木組みの枠に南京錠で閉める形になりました。