聚楽園大仏を造立した山田才吉は、大仏だけではなく仏教そのものにも興味があったようでした。それは才吉の仏教遍歴からも推察できるのですが、今回は才吉と仏教の関わりをまとめてみたいと思います。
才吉の家は浄土真宗本願寺派(西本願寺)を信心していました。そのため才吉は、基本は浄土宗本願寺派と関わりながら人生を過ごしていきました。現在に残る、才吉の位牌が入る仏壇も本願寺派様式。中央に阿弥陀如来像、脇侍に浄土真宗の始祖・親鸞および中興の祖・蓮如の御絵像をまつっています。聚楽園大仏も浄土真宗の本尊である阿弥陀如来です。
ただし才吉は浄土真宗に固執はしませんでした。その一つが聚楽園大仏の胎内に、本朝13宗の始祖をまつったことです(過去のブログを参照)。
これは一宗派に限らず広く人々を呼び込むためのアイデアとも推察できますが、才吉が一宗派に固執する性格であったら行わなかったはずです。加えて、本尊として臨済宗・南禅寺の管長から譲り受けた観音菩薩像も、造立当時に大仏胎内に安置しました。
才吉は名古屋・覚王山にある大龍寺(五百羅漢)の移設にも関わりました。大龍寺は浄土真宗ではなく、禅宗の一宗派である黄檗宗の寺です。
大龍寺はかつて名古屋の新出来町にあり、それが1912(明治45)年に現在地の場所へ移されました。才吉はその発起人の一人に名を連ねました。さらに才吉は、自身が経営していた旅館・東陽館で、この五百羅漢の出開帳も行なっています。
これら縁もあり死後、才吉の墓は浄土真宗本願寺派系のお寺ではなく、大龍寺に置かれました。一方で、才吉の葬儀は本願寺名古屋別院(西別院)にて、葬儀社・一柳により執り行われました。
大龍寺の本堂には才吉の像と、境内に才吉の墓があります。
写真中央の自然石を使った墓標が才吉が生前に建てた墓。「山田家之碑」の字は才吉自身の手によるものです。ここには才吉と妻および子どもが眠ります。自然石は通常墓標に使うことは少ないですが、ここも人と違ったことが好きだった才吉の趣向が現れています。
自然石の斜め前にある「先祖代々之墓」は三女・幾久子の夫であった守隨五郎(故人)が建てたもの。ここには幾久子(山田家之碑との分骨)および五郎が眠ります。自然石から向かって左側の「南無阿弥陀仏」と書かれた墓標。ここは才吉の親族の墓です。
面白いと感じたものには積極的に関わっていった才吉。その影響もあり現在、才吉の実子の家には、親鸞や蓮如が並んだ本願寺派様式の仏壇に、黄檗宗のご住職がお経を上げに来るという、なんとも才吉らしい習慣ができあがりました。