聚楽園大仏の正面向かって右奥に、自然石でできた2つの石碑があります。向かって右は「山田才吉翁頌徳碑」、左には「山田才吉翁寿碑」と書かれています。このことからも分かるように、以前は才吉の銅像がありました。
銅像設立の音頭を取ったのは、当時の名古屋市長だった大岩勇夫と、東邦ガス初代社長・岡本桜です。大岩は次々と新しいアイデアを実現していった実業家としての山田才吉を高く買っていたといい、岡本は山田才吉が経営参画していた名古屋瓦斯(後の東邦ガス)時代に、技師長として同社に勤めていました。
同碑の賛助員には、伊藤次郎左衛門(松坂屋初代社長・創業家)、岡谷惣助(現・岡谷鋼機の当時の当主)、岡本桜、小山松寿(名古屋新聞社長)らが。そして名古屋市、愛知県五二会(愛知県の勧業団体)、東邦瓦斯、大日本麦酒(アサヒビールおよびサッポロビールの前身)、名岐鉄道(名古屋鉄道の前身)、新愛知新聞(名古屋新聞と共に中日新聞の前身)などが名を連ねました。
才吉の銅像自体は戦時中の金属供出で国へ差し出すことになり今は残っていません。子孫の家に残る当時の写真を確認すると、洋装にステッキを持った全身像で表現されていたようです。また「山田才吉翁頌徳碑」と「山田才吉翁寿碑」も以前からここにあったわけではなく、聚楽園公園が平成に入って再整備されるに伴い、現在の場所に移されました。