山田才吉に関する資料については、伊勢湾台風で海水に浸かったことや、時代を経て散逸してしまったこともあり、才吉の実子の家でも潤沢に残っているわけではありません。しかし、その少ない資料の中に、かつて東陽館にあったと思われる(注1)コンクリート製とみられる不動明王像の写真を確認できます。
像の大きさは、一緒に写る人の姿から推し量るに、10メートルくらいの大きさ。これほどのモニュメントがあるなら、手元に残る東陽館の館内図に描かれるはずですが、東陽館が開館した1897(明治30)年当時の図には像の存在はなく、おそらく後から造られたものと言えそうです。
作風は、聚楽園大仏の正面に鎮座する仁王像と似ているため、聚楽園大仏や仁王像の制作を担当した後藤鍬五郎らの仕事ではないかと思われます。
(聚楽園大仏の前に立つ仁王像)
つまり、もしこの不動明王像が東陽館のものなら、才吉は後藤鍬五郎らに聚楽園内で大仏を造らせる前に、自身の施設内にコンクリート像を造らせていたということになります(ただし、東陽館が閉館したきちんとした年数が分かっていないため、この辺りも検証が必要ですが)。
(大仏造立時の職人たちの写真、中央が後藤鍬五郎)
東陽館は1906(明治36)年に火災により焼失、再建されています(過去のブログを参照)。ここからはまったくの推測ですが、東陽館の目玉の一つとして、そして過去に降りかかった災難からの厄除けという意味も含めて、才吉はこの不動明王像を庭園内に造立したのかもしれません。今後、資料が出てきましたら追記しますが、現状では多くの部分を想像で補足するしかない状態です。
注1:
不動明王像を東陽館のものか完全に断定できていない理由は、この写真が出てきた時に行なった場所の判定を、才吉の三女の幼い頃の記憶に依っているからです。東陽館以外の旅館の景色ではないという意見から、東陽館と判断した記憶があります。