聚楽園大仏を次の世代に伝える会聚楽園大仏を次の世代に伝える会

聚楽園大仏について

聚楽園大仏(しゅうらくえんだいぶつ)は、1927(昭和2)年に昭和天皇のご成婚を祝い、愛知県知多郡上野村(現在の東海市)にあった料理旅館・聚楽園の敷地内に造られました。造立者は同園を経営していた実業家の山田才吉。高さ18.79メートルの鉄筋コンクリート製の阿弥陀如来像です。現在は東海市の文化財(市指定名勝および市指定建造物)に指定されています。

当初、大仏は「大正天皇御大典記念」として名古屋市内の東築地に計画されました。造立に際しては、一般からの寄付を募りましたが時世もあり集まらず、最終的には才吉が私財を投じて完成させました。場所も、当初の計画地であった東築地から愛知県知多郡上野村に変更。事業目的も「大正天皇御大典記念」から「昭和天皇陛下御成婚記念」に変え1923(大正12)年に着工しました。

建造に費やされた額は15万円(現在の価値で2億4000万円)。当時の最新技術だった鉄筋コンクリート工法で造られており、日本の初期鉄筋コンクリート建築としても貴重な遺産となっています。才吉がこの工法を大仏に採用したのは、かつて火事や高潮により自身が建てた巨大建築に大きな損害を受けた経験があり、「火災にも水害にも負けない像にしたい」という願いがあったからです。

以前、大仏の胎内には日本の仏教13宗派の宗祖の仏画が掲げられていました。中央には京都・南禅寺の管長・河野霧海より才吉が賜った、後桜町天皇の念持仏だった聖観音像が安置されていました。現在の胎内には当時の仏像や仏画は安置されておらず、聖観音像は戦後、GHQの兵隊によって持ち去られたと言われています。また大仏の白毫は、電照装置により光を放つ仕組みを備えていましたが、造立後まもなく取り払われました。理由は、才吉の次女および三女の話によると、才吉の夢枕に大仏が現れ「頭が痛い(熱い)」と訴えたことが理由です。

敷地内の阿形・吽行の仁王像(市文化財)、大灯籠、常香炉、参道なども当時の姿を保ちます。同じく敷地内にある山田才吉翁頌徳碑は、かつて山田才吉翁寿像と共に造られたものです。大仏は第二次大戦の戦禍を逃れていますが、山田才吉翁寿像は戦時中に金属供出され現存しません。